昭和45年10月30日 夜の御理解



 人間の幸福というものはどう言う様な事をもって、まぁ幸福と言うかと平穏無事という事成程それは幸福です。けれどもそこに平穏無事であると言う事が、有難いと言う感謝の念で一杯でないと、その幸福は本当の幸福のものではないと私は思う。今日私はある事をお願いさせて貰いよりましたら、大きな大木をね大木を頂いて、それに枝葉がこう付いておる。枝が付いておる。
 その始めに大木の幹の所を頂いて、これにはね小鳥がその小鳴いておる。止まられないで大きな幹それに小さい枝があって、初めて小鳥がそこに宿る事が出来ると言う事を頂いてから、今私が申して居ります様な事を、まぁ分からせて頂いたんですけど。大木と言うのは大きな木、大きな心とこう言うですね。いわゆる大きな心をという、まぁ言うならどんな事が起こっても、驚かんで済む大きな心とでも言おうかね。
 所がそれではね矢張り、小鳥と言う事は幸せと言う意味に、今日私感じたんです。その時のその小さい枝に、初めて小鳥が止まられる。だから私共がねその大きな心と、小さいもうそれこそびみょうな神経とでも申しましょうか。その両方の心が私共の心の中に育っていかなければ、人間の幸福という事はない。また小さい神経だけではねもう不安で不安でたまらない。腹が立って腹が立ってたまらない。いらいらしてたまらないと言う事になりますはね。
 小さい神経であったら。もう人がちょっとそのどうか言うたら、もうそれが自分の心に引っ掛ると言う様な事で。けどもそういう微妙なまでの神経と、いわゆる大きな心とが一つに頂けれるというのは、私はこれは信心でだけしか頂けんのじゃなかろうかと、こう思うですね。私共はどっちかち言うと、非常に神経がこまい方なんですけれども、信心をさせて頂いて、段々おかげを頂いて、まぁ有難いと例えば今朝の御理解、もう今朝なんかはもう嬉しゅう暮らせばとね。
 一日を嬉しゅう暮らせば、家庭に不和はないと言う様な、もう本当に嬉しい嬉しいという、まぁ一日でしたね。言うならば有難い有難いという一日でした。ですが何も無かったかというと、そうではない様々な事が、今日一日の中でも、大変なお取次ぎなんかもさせて頂いたんですけれども矢張り、私の心の中に嬉しいという心、有難いという心は矢張り朝から今日只今まで、こう持ち続けさせて頂く事が出来ておる。
 ですからそういうその心と言うものが、ただ平穏無事だからそういう心がと言うのではなくて、どの様な事があっても心が平穏無事と同じような状態であると。障子一重がままならぬ人の身とこう仰る。本当に障子一重がままならぬ。今日あって明日ない命だから。ですから、本当いうたら不安で不安でたまらんと言うのが、本当の人間の姿でなからにゃならんのです。
 ですけれども平穏無事であるとなんでもない、言うなら平気な心でおると言う事は、それはいうならば横着な心と言う事になるのです。けども障子一重がままならぬ人の身でありながらもです。神様のお守りをこう頂いておる。御守護を頂いておるという、その有難いというものがね、嬉しい一日であり有難い一日であるという時に、それはいわば平生心、ね。不安と言うならば有難いというものが、チキリ(秤)にかけて、同じいわば平生を保っておれると言う事。そう言う事がねその本当の平生心。
 これが本当の有難いと言う事である。もう信心しよりますけん安心しとりますち言うようなのは、これはいわゆる慢心と安心は紙一重と仰る様に、それはほんなもんじゃない。信心してればしとるほど、本当言うたらその障子一重がままならぬ人の身である。一寸先は闇の世である事が分かっておるのであるから、不安でたまらん。不安でたまらんから信心する。謙虚な心で神様に打ち向かう。
 だから生まれてくる信心の喜びが頂けれる。その喜びと不安とが一つになって、平生心を保って行くわけです。その平生心こそが本当のおかげを頂けれる心だと言う事です。ですからそう言う所を、一つお互いが分からせて頂かなきゃならん。今日はあの小倉の富永さんがおかげ頂いてから、初めて今日あの幹三郎が病院に参りました。でまぁ本式にまぁ診察をいわゆる受けたわけですけれども。
 帰ってまいりましてからですね。もう万事万端の上にお都合お繰り合わせを頂いて帰って参りました。そしたら富永さんが幹三郎に言うておられるとですもん、もうねあちらの先生方はねうちの先生の先輩やら、後輩やらでねもうとにかく、親切にして下さるしとても良い方だからね、あの一つも怖い事なかったでしょうち言うてから言いよりなさる。そしたら、幹三郎が言う事です。いいや僕は怖かったち言いよるとです。それでもねあの出掛けに親先生に。
 お取次ぎを頂いて行った時にあの紫ムードだぞと。 安心ムードで行けよと言われた事をふっと思い出したらね、それから安心が出来たと言うのです。だからあのそれなんです問題は。おかげを頂く心と言うのは。もう怖うて怖うてたまらん。始めてみる例えば病院。始めてその沢山の偉い先生方の中で、色んな設備の中でレントゲンをとったり、色々診察をして貰うと言う事がね。矢張りその不安で怖くてたまらなかったと。けれどもお取次ぎを頂いて行った時に紫ムードだぞと。
 紫と言う事はお知らせを頂くと安心と言う事。だから安心ムードで行けよと親先生が言われたから、その事をふっと思うたら安心、その怖くなくなったと言うて、富永さんに話しておるのを聞かせて頂いてですね。そして今晩の御理解を頂いて、ははぁ本当の平生心と言うのはそれだと。人間と言うものが実を言うたら怖うて怖うてたまらん。障子一重がままならぬ人の身なんだもの。だから信心しなければおられないのであり、今日の朝の御理解にもあるように嬉しゅうてとか、有難いという心はね。
 日々の改まりが第一じゃと一番に仰っておられる。その日々に改まるという。改まって行こうと形の上にでも、心の上にでも改まって行こうと。そういう精進をさせて頂いておるから。神様が与えて下さる喜びと言うものが、安心と言うものがあるのだと。その喜びと安心と怖くてたまらん、不安でたまらんと言うのが一つになった時にです。そこに生れて来る所の水平な心ですね。
 所謂チキリでかけて竿が真っ直ぐになった時が平生なんです。所謂そういう平生心が頂けると言う事が、もうこの上もない信心させて頂く者だけにしか頂けない素晴らしい心だと言う事になる。その心を保って行く。それがたまにはね横着でピンとその、跳ね上がって要る様な、その神様改まりもせず、信心もせず御祈念もせずに、その平生でおると言う様な事やらは、これはもう結局慢心しておる時なのである。けれども改まると言う事に一生懸命拝む事にも一生懸命と、その心を込めさせて頂いておる時にです。
 生まれてくる信心の喜びと言うものが、平生をなしておるときですね。それが本当は平生心であると言う事。安心とはだからそういうデリケートな内容と言うものがあっての事なんです。ですから不安でたまらんからお参りをする。心配する心で信心せよと。心配だからこそ一心に神様に打ち向かう。打ち向かうから安心が頂ける。これが本当の平生心であるという事が分らせて貰いますよね。私共がただ信心しよるから安心   
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